日本でのレーダー
日本でのレーダーは1939年に陸軍が連続波で航空機からの反射波の受信に成功している。その後、陸軍ではいくつか電波警戒機という名の装置を銚子や東京湾入り口に備えたが役には立たず、その後も「た号1型」「た号2型」を開発し対空高射砲陣地に備えたがあまり成果は挙がらなかった。このためもあり、1942年8月、ドイツの新型「ウルツブルグ・レーダー」の入手を計画し、伊号第三〇潜水艦で輸入を試みたがシンガポールで触雷し沈没した。
一方、海軍技術研究所では、伊藤庸二造兵中佐の下でマイクロ波パルスを利用した「暗中測距儀」の実験を独自に行っていた。1940年秋の大観艦式の際に艦船からの波長10cmの反射波が捕らえられ、レーダー開発の可能性がもたらされた。さらに、1941年には伊藤ら海軍の視察団がドイツへ渡ってレーダーを含む軍事技術の供与を依頼したが、ドイツにとってもレーダーは極秘事項だったために伊藤らに公開された情報はわずかなものだった。また、ロンドン駐在の濱崎諒中佐もバトル・オブ・ブリテンにおける英国のレーダー部隊の実戦投入と活躍を報告し、その有効性を主張している。しかし、海軍中央は八木アンテナやレーダーの効果よりも、自ら電波を出して敵に発見される危険性の方を重視したため、開発には消極的であった。第二次世界大戦の最初期では、まだレーダーはそれほどの性能を持たなかったため、戦局は日本が優位に進めた。しかし、時代が進みレーダーの性能が加速度的に進化した結果、日本軍は多くの戦いでアメリカ軍に苦汁を飲まされる事となる。 レーダーの重要性を痛感した日本海軍は慌てて開発に力を入れたが、時既に遅かった。1942年に戦艦「日向」において実験を行なったがあまり良い結果が得られずそのままミッドウェー海戦に出た。日本海軍ではその後も開発を続け、1941年に戦艦「大和」級に水上索敵と射撃管制用の「2号2型電探」を備えてはじめて実戦に使用可能なレベルのレーダーを手にした。初期のレーダーは雨が降ると反射されほとんど役に立たなかったうえ、指向性も不十分だった。
戦局の悪化で本土防空戦が始まり、高性能なレーダーが必要とされたが、当時の日本軍のレーダーは「電波警戒機甲型」という名称のドップラー・レーダーで探知性能は極めて低かった。そこで「乙型」が開発されたが、性能は有効射程300キロ、方向は大まかにしか特定できず、高度測定は不可能であった。更に工業力の低さから真空管が頻繁に故障を起こした。乙型は40年のバトル・オブ・ブリテンで活躍した程度のレーダー性能は持っていたが、生産に入ったのは終戦直前で、殆ど活躍の場はなかった。
日本語では、電波の照射の跳ね返りにより位置を探るものを「電波探信儀」、相手の発する電波によって方向探知するものを「電波探知機(もしくは受信機)」と呼び、双方共に短く「電探」と呼んでいた。(後者においては「逆探」と呼んでもいた。)なお、これは日本海軍での呼び方とされており、日本陸軍では特に前者を「電波警戒機」と呼称した。
なお、八木アンテナはその後、主に家庭のテレビアンテナ等として広く使用されるが、21世紀の現在でも当初の頃からほとんど変わっていない。それだけ完成度の高い技術だったことになる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
技術の向上に向けさらに研究が行われているようです。
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